「遠い場所のこと」

毎日さまざまな情報がこれでもかとたくさんあって手に入れることができます。
でも知りたいと思うことの情報がないこともある。
たどりつけていないか、世に出回っていないか、一部を切り取られて歪曲しているか。

「知っている」という状態には、立体的にグラデーションのようなレベルがある。
いちばん濃度が高いところにいるのは当事者。その周りに関係する人。
中心が濃い立体的なグラデーションの球体みたいなものがたくさんあって、重なり合ってもいるような。それが、動いているような。
その球体の一番外側にいる「知っている」人は動いている球体をいつのまにか見失う。




遠いことは、物理的な距離でもあるけど、どちらかというと当事者との心理的な距離だと感じる。物理的に真横にいる人はある部分ではじつはすごく遠いところにいるのかもしれない。

「大変だね~」とか
「がんばってね~」とか
笑いながら言われたりする。

この人、自身では善意で言っていると思っている・・・と思う。
そして「カチッ!」とくるときがある。

でも同時に自覚するのです。
その「カチッ!」は、自分は当事者として動いているのだという証明になる。
そして、このような状態の人には決して助けを求めてはいけないであろう・・・というジャッジメントの指針になる。

大変なことがスキというかズルができずバカ正直なわたしは、子供の頃からいつもそういう言葉を承ることが多い。
だいたい、そんな態度で言う人が手伝ってくれたり助けてくれることはない。
さほど大変でもなく、大丈夫だし、そもそも頑張るってなんだ?頑張っていないように見えたか?今以上に頑張れってことか?いや応援してくれてるのか・・・。
頑張るけども、そのがんばれ~で頑張る頑張りは1ミクロンもなかったり。
なにしろ、その言葉をいただくとなんとも言えない見えない大きな高くて厚い壁がその人との間に立ちはだかった気がするのです。
グラデーションでいえば、当事者の「自分=黒」から遠い白、いやそれを過ぎて透明だ。見えないほど遠い。
知らないに等しい知ってる人。
助けてくれたり、力になってくれる人や一緒になにかに向かって進んでいる人にそういったことを言われたことは、・・・ない。
観覧席からではなく「がんばろうね!」とかである。

シャッターを下ろすような態度でその言葉をつかわないようにしている。
その言葉が出てきそうになったら、手伝うことはないか探してみる。「なにかやれることは?」と聴いてみる。

下手な態度で「がんばれ~」って言うことは、自分がその人にとって無色透明になるということだ。
そう・・・。存在が透明。


情報がたくさんある中で、ひとつひとつものすっごい速さで通り抜けるけど、それだけで知ったつもりにならないように、機会があれば生身のその人に会いに行く。
声を聞きに行く。その人がいる場所に行ってみる。
そうすると、すこし距離が近づいたようでとても力がわいてくるのです。
「知っている」の濃度を高くしてから自分のできることをする。
やはり、何かをするに、その顔が浮かぶというのは大事なことだと思う。