「大地を受け継ぐ」を観ました。

福島県須賀川市で先祖代々農家を営む樽川家の2011.3.11から4年間の軌跡を息子さんと母親が語るドキュメンタリー映画です。

学生さんが樽川さん宅を訪れ居間でテーブルを囲み話を聴いている。その中の1人になったような臨場感のあるカメラワークでただその語りを聴く。

その語りは映画でぜひ見てあらゆるものを感じていただければと思います。

その語りについての考察を。

テキストで起こしたらなくなってしまいがちな沈黙が、多くを語っているような瞬間がたくさんありました。
井上監督の映画への”声”のなかに

言葉を撮ること-言葉を語る彼を、言葉に詰まる彼の沈黙を撮ること-で、言葉の向こう側にあるものが想像できるのなら、それこそが映画ではないかと思いました。

という一節がありました。




わたしは映画がなんなのか定義もできないし説明もできないのですが、今回言えるのは、投影する機械が映す画とは別にもう一つ別にオリジナルの投影機が感情を持ちながら動いて映る強い画がありました。

語りの中のいくつもの沈黙の間、樽川さんが言葉に変換するまで、同じ感情を強く共有しているような気がしました。
迷いや憤り、怒り、悲しみ、絶望、ただその情景が脳裏にフラッシュバックしているのであろうというところまで画面にみえる。
その語る顔を見ているのに、私にみえる画はその樽川さんがみているであろう畑の画と感情なのです。
ご本人が語るからこその説得力と感情の襞が表層化した声色や表情と組み替える手から自分が樽川さんに乗り移ったかのように同じ波長でこころが揺さぶられ、もはや境界がわからない。
フィクションとは違う、違う次元の身につまされる追体験をしているような。
自分の存在、意識など消えるほどの何かがありました。
一瞬、ふと我に返るけれどなんとも言えない虚無感にさいなまれる。
もし自分だったらどうするのだろう。
ただ見ている自分は何をすればいいのか、また何をするべきでないのか?
何を選択して、何を選択しないのか?
その岐路に立ったときその先を指し示すための体験になりました。

ニュースで事実を知っていても、その当事者本人の揺れ動く感情まではみえない。
つらかろう、ということだけ感じても、それも自分のちっぽけな尺度でしかない。
自分の現実にはならないほどの時間しか費やせないことが大半。

でも自分と関係のあることとすこしでも思うのであれば、その場所にある感情を五感をつかって見知りに行く。
語らなくたって、直接お話しできなくたって、理解ることがたくさんあるということがわかった。
そして、じぶんの理解らなさも知る。

自分は、自分一人でできているのではなくて、現実だろうと画面の向こうだろうと自分が共鳴したたくさんの人が住んでいるような気がするのです。

「大地を受け継ぐ」は、そこに登場する人、つくる人、観る人・・・ それぞれの人間の「ソウゾウ」していく力を信じた作品なのだと思いました。

大地を受け継ぐ 公式サイト

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